北条節句祭の味わい方 ── 中~上級編

祭は、よい意味で、よその祭と見せ場を競っています。個性が大切なのは、祭も人も同じ。 どっかの祭からコピペしてきただけの技なら、磨く価値のある伝統といえません。 北条節句祭には「祇園囃子練り」という、けして他の祭では見られない雅な練り通しがあります。


「逆襲」のふりかえり

北条を離れてからずいぶん経ちます。わたしが町を出て行ったのは97年。 独立して会社をつくったときでした。このページの以下の文章は、わたしがまだ北条に住んでいたころの話でして、 わたしが発行していたミニコミ誌に自分で書き下ろして掲載した原稿を掘り出してきたもの。 写真も、モノクロのものは当時撮影したもの(またはカメラマンの山本健一さんから提供してもらったか、またはどっかから無断で転載したものかも)です。 原稿のタイトル「北条節句祭の逆襲'96」。 いまなら、こうやってネットでお手軽にバンバン情報発信してたでしょうけども、ずいぶん面倒なことをやっていたもんですなぁ。
意味が通じなくなったので、このサイトでは「担ぐ(かつぐ)」という日本語に置き換えてますが、 地元のもんは屋台や神輿を肩に載せて運ぶことを「かく」と言ってます。 「ゴマ外してかいていこ!」みたいに。(屋台を乗せる台車のことをゴマ、またはコマと呼んでいる。) 「かく」は漢字で「舁く」と書き、むかしは「籠かき」という職業もあって、古語辞典にも出てますが、もうぜんぜん通じません。わたし自身、祭のほかでは使うこともないですが、祭では「担ぐ」とは言わないし、逆に、ぜんぜんしっくりこない。ここで使っててもしっくりきてない。屋台は「かく」もの。言葉の置き換えはやむをえず妥協。 かいていくのか、ゴマに乗せて押していくだけか、そこのちがいが死ぬほど重大。

30歳の青年団長

節句祭では14町から化粧屋台が奉納されます(※平成31年に宮前町が屋台購入して15町に)。わたしの地元、御旅町はその中でももっとも小さい町のひとつで、いまやわずか50戸足らず。 担ぎ手も足りない、乗り子も足りない、花(寄附金)も集まらずお金も足りない。 もう屋台を維持するのは無理ではないかという危機感いっぱいの限界集落です。 会社にたとえたら、資金繰りに行き詰まって倒産寸前の零細ってとこ。
 93年(30歳でした)から3年間、御旅町の「青年団長」を買ってでました。 青年団ですから、ふつう団長というのは20代半ばの若手が務めるもんです。 が、大学に入ると同時に街へ出て行って祭の当日だけしか戻ってこないとか、祭にはもう興味ないとか、大半の町が祭の担い手たる若年層に不足してますから、30代で青年団長というのも珍しくありませんし、何年も続けて団長というケースもあります。 わたしが団長になったときの御旅町青年団は町内に住んでいるメンツだけだと4人しかいない。 心細く「これはマジでヤバいな」と半泣きだったことを覚えています。

祭の衰え

あのころ(90~93年ごろ)の北条節句祭はマジでヤバかった。これはわたしの気のせいや思いすごしじゃないはずです。 御旅町だけの問題でもありませんでした。 祭の見物に来たお客さんに、宮入りを見られるのが恥ずかしいほど、事態は切迫してました。
 屋台が上がらない。ボトボト落として、なかなか動かない。 宮入りで、前の屋台が落としたら、待っとくのがしんどいから次も落とす。 落とすというより、置いて一服してしまう。もうそれがあたりまえ。 宮入りの途中で屋台を落として、そこで平然とタバコ吸ってるヤツを見たとき、「もうこの祭はあかん」と思った。 子どものころの、血湧き肉躍る興奮はもうどこにもなかったし。
 こんな、だらだらした祭は、自分が知っている北条の祭とはちがうと思うと悔しくてしかたない。 台車に乗せた屋台を、引っぱりまわすだけ。 けど、人数が揃わないからどうすることもできません。 足腰の立たない、よぼよぼのじいさんまで駆り出して、木方のおっさんまで総がかりで肩を入れて、それでも屋台が重たくて持ち上がらない。 人数の少ない町どうしで融通しあうけど、それにも限界あるし。 これはもう、宮入りは無理かも、もうあかんかも、と、なんべんも思った。

雨と祭

雨で祭が中止にされてしまうことほど、心が折れることは他にないですね。 (「祭が中止」というのは語弊がありますが、屋台奉納が中止になることと解釈してください。 屋台奉納がなくなっても神事はやってますから祭礼そのものが中止になるわけではありません。)
 祭の何日も前から、笛や太鼓の練習をして、酒や飯の段取りをして、町内に笹を張って、ただこの日のために準備するんです。乗り子もその家族も宮入りを心から楽しみにしている。 それを、年寄りの集まりが一声で中止にしてしまうんですから、たまったもんじゃないんです。
 季節が季節ですから、節句祭に雨が降るのはしかたがありません。実際、よく降ります。雨が降るのはしかたがないとして、ちょっと降ったらすぐに祭が中止にされてしまう。 中止と決まって半べそかきながら屋台を引き取って、しばらくしたら雨が上がって青空が広がる。 その恨めしい気持ちがわからんかっていう話です。ずぶぬれになってでも祭をやらせろと言ってるのではないんです。 「このくらいの雨ならどうってことないから祭やってるやろ」って、現に大勢の見物人が出て来て待ってるのに、とっとと屋台を片づけてしまう、その弱腰はなんなんだと怒っているんです。
 わたしが青年団長になった最初の年も、あっさりと中止の宣告。 そして案の定、屋台を片づけてからしばらくしたら雨は上がった。これがパターンなんです。あまりに空しいので、いったんしまった屋台をまた出して、半ばヤケクソ気味に町内だけで練りました。 春の天気なんですから、少しのあいだ待ってたらやむことのほうが多いんです。

北条節句祭連絡会

このあとの文章の中に「連絡会」というのが何回も出てきます。 わたしが青年団長になって2年めの1994年、「北条節句祭連絡会議」と称して全町の青年団長が神社に集まろうと提案しました。 すたれる一方の祭を「なんとかせなあかん」という切迫感みたいなのがあって必死でしたから、あっちこっちかけずりまわってネジこんだ。
 笹屋の井上晃さんと出会って話をきくうちに節句祭の無責任な意思決定機構が見えてきて、そこがひとつの標的になったと思います。 宮司にかけあい、総代会の役員にかけあい、地元の有力企業の代表にかけあい、よその祭の青年団にかけあい‥‥、祭の勢いを取り戻すそうという目的に向かってスイッチが入ってしまったんですね。
 いま、その組織がその後どうなったか、実はよく知りません。ぎゃあぎゃあ騒いでけしかけて、発足するだけして、あとは勝手にやれって感じで放って出てしまったかたちになりました。 そこはちょっと反省。何かを変えようとすると、なんせ、ややこしい。血の気の多いもんどうしの意地の張りあいで。そこが祭のややこしいとこ。 指揮命令系統もクソもなく、上下の統制のきかないところで血なまぐさい感情がぶつかりあって衝突が絶えません。 いまも、よその祭できっと、似たようなごたごたがくりかえされているはずです。これからもそうでしょう。
 ま、1990年代の節句祭に起こったささやかな「逆襲」に、ざっと、こういう背景があったんだな、とだけ。

1996年の北条節句祭

以下、96年当時の古い古いミニコミ誌からの抜粋が続きます。 文体がケンカ腰で荒っぽく見えるとしたら、お恥ずかしながら事実として焦りやいらだちが充満していたためで、気のせいではありません。 言葉足らずなところ、表現が汚すぎるところ、等、配慮して改変して掲載しています。
連絡会の活動は今年あたりから、それなりの成果を上げはじめたようだ。 サンテレビが一時間番組として放送することになったり、祭マップができたり、ポスターが毎年新調されることになったり、さくら銀行から横尾交差点までの大通りに全部の屋台を並べることになったり、 今年は西郷の屋台から宮を出ていくことになった(来年からは東郷と西郷が交互に先順)り、宮司がラジオ番組でPRしたり・・・・。 節句祭の「勢い」がここ2~3年を境に上り調子に転じたのは明らか。 すばらしいことである。よその祭を取材しに出かけては肩身の狭い思いをすることが多かっただけに、これからの北条節句祭の逆襲を熱い期待をもって応援したい気持ちである。
 マスコミへ、警察へ、神社へ、地元財界へ、青年団へ、役所へ、総代会へ・・・・、連絡会会長は八面六臂の活躍だ。 人心掌握術にも長け、あっというまに兵隊をかき集め、自分のブレーンで組織を固められた。資金集めも慣れたもの。 この見事な手腕に比べたら、初期のわたしの連絡会議構想など稚拙なもので、全面的に降参。マイッタである。
 今の連絡会は、良くも悪くも会長のハラづもりによって右にも左にも曲がる。純粋に祭が好きで参加している若いメンバーには少し気の毒だが、いったん上り調子という流れを作ってしまえば、あとは比較的容易に反復自動的に事は運ぶだろう。けっこうなことと思う。 ただ、節句祭の伝統や持ち味をまちがった方向へねじ曲げようとする動きに対しては、何らかのかたちで反発しないではおられない。
1996年のミニコミ誌より※一部改変

──祭を、なんとかせなあかん、なんとかして盛りかえさなあかん、という思いは、誰の胸にも共通していたんですけども、いざ、活動をはじめてみると方法がちがっていた。 そういうことってよくあることなんですけども、なんせ祭好きなもんはたいがい血の気が多いわけで、いちいち衝突してめんどくさかったわけですね。 中でもわたしはアホの見本みたいなもんで、まとまる話も壊してまわる急先鋒のアホ。わたしのせいで寿命が縮んでしまった宮総代さんが何人いたかしれません。
 祭には、変えてよいこともあるが、変えてはいけないこともある。変えたほうがよいということは案外少ない。 観客動員数や知名度を「よいまつり」の基準にするのなら、見物客の喜ぶことならなんでもやってよいことになる。北条節句祭は灘のけんか祭にボロ負けしていることになる。 「よその祭のよいところを取り入れる」と言えば聞こえはよいが、一歩まちがえばただの模倣だ。 それが許されるのは盆踊りとか花火大会とか大売り出しとかいう「イベント」のレベルの発想である。守るべき伝統のない祭のやることだ。 お客さんに喜んでもらうことも大切だが、祭の本来あるべき姿をねじ曲げてまでお客さんを喜ばせる必要はない。祭にショー的な要素は欠かせないとしても、祭は商売ではないのだ。
 「屋台の奉納は神事(祭そのもの)ではないから勝手に変えてしまってもよい」という意見もあるだろう。それは確かに正論であると思うし、部分的にはわたしも同意する。 たとえば、節句祭の最後の宮出しで、初めて先に出ていくことになった西郷の屋台は、見送りの東郷の屋台からやんやの喝采を浴びながらとびきりのサシテヤロを披露し、ひとつの見せ場をつくった。差別的な慣行によって続いていただけの無意味な風習を破った快挙なのだ。
 しかし、伝統のある祭には、その祭に固有の「持ち味」というものがある。祭は、良い意味で、よその祭と技を競っているのだ。 われわれが地元の祭の「持ち味」を大切に守っていくなら、それは絶対的な価値であり、よその祭と比較したとしても勝ち負けはない。 しかし、よその祭の魅力にかぶれ、マネをし、コピーしたなら、その瞬間から負けてしまうのである。笑われるのだ。
 地元の祭にプライドが持てないなら心が負けている。よその祭のよいところを取り入れて地元の祭の「持ち味」がより引き立つならよいだろうが、北条節句祭には他にしなければいけないことがまだまだある。


祭も、人も、会社も、いっしょかなと思います。つくづく思う。 このままじゃあかんとなったとき、しんどくなったとき、どうするか。なんか変わらなあかんというときに、どうするか。強いところを磨いて伸ばすか、弱いところを埋めるか。 自分のいいところって何か、もういっぺん見直す。どっちにしても最低1回は、それをやろう。
 わたしはかつて、「よいまつり」とは勢いのある祭のことだと勘違いをしていたが、「勢い」が祭を壊す元凶となる例を目の当たりにして、そうではないことに気がついた。 お金がないこと、氏子が少ないこと、有名ではないこと、屋台がボロっちいことなどは、本当はそんなに恥ずかしいことではなかった。 「よいまつり」とは、神さまを中心に据えた祭のことだというあたりまえの結論に帰り着いた。
 本当に恥ずかしいことは、ちょっと雨が降ったくらいで屋台奉納を中止してしまったり、警察の言いなりでスケジュールを短縮したり、神聖な境内の中でさえ屋台を台車に乗せたまま引っぱりまわしたりしていることなどである。 なさけない腰砕け。不敬。神さまが不在のまま祭をやっているからこんな体たらくなのだ。
 わたしの敬愛する笹屋の井上さんは、毎朝熱心に神社の掃除をしておられるが、神を敬う気持ちがあれば誰でも神の声を聞くことができる。 たとえ無神論者でも、神のお怒りやお喜びは、信心深い人の信仰心を通じて実感できやしないか。 きっと北条の神さまは泣いておられるぞ。
 祭は神さまのものであって誰のものでもない。 連絡会は、「何回も話し合った」とか「総代会も認めた」とかいうフレーズを、水戸の御老公の印篭のようにチラつかせては自分たちの決定に正当性をもたせているようだが、 伝統文化を継承するという使命のなかでは多数決にも意味がない。政治のルールと祭礼のルールは違う。二度と元に戻せないものを変えようとするとき、現時点での多数意見が10年後にも支持される保証はないからだ。 会長は、いずれ連絡会を祭運営の実質的な最高決議機構に格上げする構想をもっておられるようだが、そんな試みはおやめになったほうがいいだろう 。
1996年のミニコミ誌より※一部改変

祭の個性

ミニコミで祭の特集号を発行するにあたり、播州各地の祭を取材してまわりました。 屋台の製作所や刺繍をつくる職人さんの現場を見てまわるなど、いろんな角度から深く祭に関わりのある人を探してインタビューさせてもらいました。 粕谷宗関さんもそんな中のひとり。播州屋台の研究、特に彫刻に対する造詣の深さでは他の追随を許さない第一人者です。 わたしが話を聞かせていただいたのはちょうど「男が咲かす祭り華」という著書の出版前でしたが、その後も数々の祭り屋台研究本を出版されています。
 だいぶ長い引用になってしまうのですが、以下の文章は、「男が咲かす祭り華」の中で特に印象深かった箇所。 わたしの大好きな魚吹八幡神社の祭に言及した「魚吹名物チョーサー」と題された一節です。

 魚吹(網干)の「チョーサー」は非常に素晴らしい練りで、日本全国どこを探しても無いと思われます。 この練りは、一見単調なように見えますが、実はそうではなく、長年にわたって磨き研ぎすまされてきた非常にすごい練りであり、これをいろんな角度から見てみますと、まず第一に鷲が地上より大空に舞い上がるというスケールの大きい練り技なのです。
 これを武道で例えますと、技合術に相当し、たった一刀の元に勝負を決する、気迫のこもったものであるため、屋台には隅シボリでなくてはならないのです。 伊達縄ではチョーサーをした際、ボディがガラ空きとなり、全くガードされていないのです。この点、隅シボリであれば、ガードもしっかりとして、打ち込むスキが全く無いのです。 大空に舞い上がるような練りをする屋台は、ちょうどロケットのように上に向かうように作られているため、垂木は三段で、上体が全体に高く、この反面、泥台が低くしてあるため、高欄掛を必要としないのです。 上空に舞い上がる流れを途中で切ってしまうような高欄掛は全く似合わず、あくまでもロケットが白い線を残して上空に飛び去り、下には余韻を残すような感じでなくてはならず、これが途中で切れてしまうのはいけないのです。 この点、高欄掛は、上に伸びる練りをしない、練り合わせ(泥台までも見せない練り)を行う屋台には実によく似合うのです。この点、飾磨の台場差しも網干のチョーサーと同じく、上空に舞い上がる練りをする屋台ですから(上から下までの全てを見せる)、 全体的には上から下に流れる取り合わせになっているため、伊達縄は巻かれている点がすなわち上に伸びることを表現しているのです。ですから、高欄掛も必要とせず、乗子襦袢も上への伸び、下への流れを美しく見せるため、刺繍は不必要となります。
 さらに台場差しの屋台は、龍が天に昇るという練りで、全体が地味に統一されており、刺繍入りの派手なものでは、上に差した場合、そこだけが目立ち過ぎ、全体的な和が破られ、非常に見ずらくなるため、台場差しの屋台には派手な衣装は似合いません。 反面、あまり注目されないような高欄の親柱に銀を使った梅にウグイスを配し、高価なサンゴをさりげなく垂木の先金具に使用したりという、一見してわかりにくいような所に、見事な細工を施す、心憎いおしゃれをしているのです。 何事にも全体的に統一のとれたものでなくてはならず、一部分だけが特に目立つようなものは組入れてはいけないのです。
 次に練り方は、その地区の風土と気質により現在のように仕上げられてきたのではないでしょうか。 この例を灘地区で見てみますと、ここは灼熱の太陽と火を象徴するかのような土地柄であったため、名人芸のような練り技では到底満足できないため、火のような、しかも燃え尽きるまで行う練り合わせが自然と作られてくるのです。 ところが最近この練り合わせが播州各地に広がりつつありますが、これも困ったものです。 まず第一に屋台は練り方により(いろんな構造に)作られるという、理屈もわからず、練り合わせの出来ない構造になっている網干屋台までもが、最近では「ヨイヤサー」といって練り合わせのようなまねごとをしていますが、この点を魚吹地区の方々は今一度よく考慮していただきたいと思います。
 網干にはすばらしい「チョーサー」という練りがあるのです。その技を極限まで高める努力もせず、テレビの影響により「カッコがいいから」という単純な考えで、今までの伝統をかなぐり捨ててまで、なぜそんな練り合わせに走らなければならない理由があるのでしょうか。 その点、和久と丁は実に立派です。見ていると、鍛えに鍛えられた日本刀のような切れ味のすばらしい練りを行います。地区の十八番の技は磨きに磨きあげなくてはなりません。何事も理由があって仕上げられているのです。他所は他所。 まず第一に努力すべき事は、地区の歴史、屋台を勉強して、すばらしい伝統を守り、先祖に喜ばれる祭りをしようではありませんか。
 ここで今一度言わせていただきますと、「練り」には全体の流れがあり(祭りの流れ)その流れに沿って、見せ場における十八番の練りがあるのです。この他所の全体の流れを知らずにある一部分だけを見て取り入れても、これは全くナンセンスです。 全体の流れは地区の風土、気質により作られ、要所要所に十八番の練りが実に見事に組込まれているのです。その流れもつかまずに、一部分だけを見て、真似ても、それは所詮コピーであり、ピエロです。 側からは太鼓と練りが全く合わず、そのうえ何か恥ずかしげに練っているように見えます。これは祭りの流れを乱すだけで、見ている側には、不快感が募り、あわれな感じさえも抱かせるため、やはりここ一番の見せ場では十八番の得意技で勝負しなくてはなりません。 練り方を変えるのは浮気をするのと同じではないでしょうか。長い長い歴史の中で作られてきた素晴らしい伝統をいとも簡単に変えてしまって、先祖に対し正しい申し開きが出来るのでしょうか。 己の所の祭りを大事にしない者が、正当な理由なく他所の練りを取り入れることは、明治におこった廃仏毀釈と同じで、許されるべき事ではありません。必ず後悔します。今一度、己の所の祭りを勉強し、十八番の得意技を磨きあげようではありませんか。 そうすることにより、チョーサー(招財)がいただけるのではないでしょうか。
粕谷宗関「男が咲かす祭り華」より

これは北条の祭ではなく魚吹神社の秋祭り。丁(よろ)の屋台。


いちいちごもっとも、な、すばらしい考察と感じます。北条節句祭についてご紹介をしようというページで、なんで長々と網干の祭の話を引っぱってきたかといいますと、それはやっぱり、わたし自身、 粕谷さんと会っていろいろお話をうかがっているうちに、「北条節句祭の個性」について気づかされたことがあるからに他なりません。
 魚吹八幡の祭へ初めて足を運び、これでもかというほど延々とくりかえされる見事な練りを間近で見せつけられたときの衝撃は忘れられません。 守られているものと失われつつあるものの対比も見えてきて、アゴの骨がはずれるほどの覚醒でした。
 人も祭も同じだなと思いました。もともといいところがあるのに、「強み」があるのに、それに気づかず、他人のマネばっかりしているうちに、けっきょく自信がなくなって、魅力も失われる。 そんなアホなことが北条の祭で起こってたまるかと熱くなってしまったわけなんですね。

北条節句祭と練り合わせ

魚吹のチョーサーを取りまく背景事情は、粕谷さんの著書が出るまで知らなかったのだが、それでも、祭の個性が失われるという流れに対しては、よそ者ながら漠然と警戒感を抱いたものだ。 堅苦しい伝統を嫌う若い衆の気持ちも理解できるだけに複雑な心境になったのを覚えている。
 ここ数年、にわかに見直しの動きの出てきた北条の節句祭も、こんな妙なことを言い出しやしないかと思っていたところ、その心配は意外と早く現実のものとなった。 しかも言い出したのは若者ではなく、40、50歳のええオトナ。
 今年、宵宮の日の御旅所入りのまえ、「栗田、南町、御旅町の3台で練り合わせをやろう」という申し入れが連絡会よりあったのである。 わたしは上述のような事情から個人的にはこれに賛成であるはずがない。あたりまえのこととしてこれには反対をした。個人の立場で反対をしたわけだからここまでのところに何も問題はない。 問題はそのあとだ。会長を含む連絡会幹部3~4名が「せっかくの提案に反対するとは何事か」の勢いで血相変えて詰めよってきたのである。 いわく「祭は時代の流れとともに変わっていくものだ」「よその祭のよいところはどんどん取り入れたらよい」「せっかく盛り上がってきているのに水をさすな」「目上の者に対してその口のきき方は何だ」「オレたちはいっしょうけんめいやってるんだ」・・・・等々。 なんじゃこいつらは。思わずこっちもカッとなってブチギレたが、やりたかったら勝手にやれ。御旅町はやらないから。
 結局そのあとの宮入りでは、連絡会案に賛成する町だけで練り合わせをやるのかと思ったが、言いだしっぺの某町の担ぎ手がまとまりに欠け、屋台が持ち上がらず、練り合わせどころの騒ぎではなくなって失笑を買っていた。
 この件に限らず、連絡会幹部の言いぐさにはいくつか不見識と思われる箇所があるのだが、中でも最悪と思われるのは、某幹部の「(祭のことは)ちゃんと勉強してわかっとるわい」という態度にもあらわれているように、 「自分たちには祭を変える資格がある」という思いあがりがありはしないかという点である。 30年ほども播州の屋台一筋に研究を続けてこられて、なお「わかったことはほんのひとにぎり」とおっしゃる粕谷さんとは対照的だ。 危ないというか、あつかましいというか。こんなことでいいはずがない。
1996年のミニコミ誌より※一部改変

──けっきょくこのときから、栗田と南町が練り合わせ(っぽいこと)をやりはじめまして、いまでも御旅所でやってます。 快くは思いませんが、ちょっとした余興って感じで楽しんでいただけたらよろしいかと思います。 他の町が追随して次々とマネしなかったのは賢明ですね。 要は、きれいに練ってくれたらいい。よれよれでぶさいくな練りしかできないくらいなら、いちびってよけいなことはせんと、さっさとしまう。
 練り合わせをマネしたがる傾向は、「浜手かぶれ」と呼ばれたりしますが、どうも若いヤツはあれがやりたくなるらしいです。 やりたかったら浜手の祭に出さしてもらったらいいでしょうね。あっちへ行って好きなだけハシャいできたらいい。 どうしようもなく気に入ってしまったんなら、引っ越したらいい。ほんまに祭が好きならそこまでせんかいやと思います。
 縁あってわたしは、何度か曽根天満宮の秋祭にも出させてもらったが、練り合わせをやるにはそこに至るまでの心理的な段取りが大切だと感じる。浜手の祭では祭全体を取り巻く雰囲気が荒っぽいのだ。 10月中旬は4月初旬よりも暑くムシムシしているので担ぎ手がバテるのも早い。おのずと短期決戦だ。かき棒の上に乗った清書元にシデでバシバシと煽られて気持ちが戦闘的となる。 練る際の掛け声ははじめっからしまいまで「ヨイヤサー」の一本ヤリで単刀直入に闘志を発散することができる。 そのかわり北条や網干のような優雅さはない。そもそも祭に優雅さなんか期待してない。屋台の屋根の色にしても、北条が圧倒的に「黒」が多いのに対し、曽根は赤、青、緑、紫・・・・のハデハデ系だ。 日本晴れの秋の空にはスカッとした原色の切れ味がよく映えるし、気分もカラッとする。逆に、菜種梅雨の残り香漂う北条の祭では、黒や紺が基調の落ち着いた色調でなければ軽薄に見えて浮いてしまう。 それが祭全体を支配する「和」というものなのだ。
 だから仮に、北条節句祭に練り合わせを取り入れたとしても、全体の流れをちぐはぐなものにするだけで、それが祭の見どころになったりはしない。 むりやり祭の見どころに仕立てたとしても、それはもう北条節句祭のあるべき姿ではない。(ついでに言うと、着物姿の青年がかき棒に上がってはしゃぐのも北条流ではない。) どうしても祭のスタイルを変えたいなら、宮の外だけにしてくれと願いたいが、来年の節句祭に向けた連絡会の役割は、祭に「新しい試み」を持ち込むことよりむしろ、埋もれて消えた古き良き伝統を掘り起こすことである。 「新しい試み」は祭そのものにではなく、祭を取りまく付帯イベントや環境整備のほうに取り入れたらよいだろう。
 わたしが3年前に連絡会(当初の名称は「北条節句祭連絡会議」)を発足させたときには、会は、祭そのものはなるべくいじらず、側面支援に重点を置くはずだった。 祭の勢いを復活させる目的は今の連絡会と同じでも、「祭を昔ながらの形にできるだけ近づけていく」という基本方向をもっていた。 しかし現在の会長はどうもそうではないらしい。(わたしの作成した設立趣意書は会長に検閲されて差し替えられた。) 現会長とは折り合わないと判断したわたしは、もう連絡会に参加しないことを決めたが、そもそもそのきっかけは昨年の「集合写真提案」のゴリ押しだ。 記念写真を撮るために住吉神社の中央に全部の屋台を並べたいという会長の提案だったが、境内で屋台を台車に乗せたまま引っぱりまわすことになるのでわたしは反対。 いつもは周到な根まわしを怠らない会長も、このときばかりは時間切れとみえて、ろくに話し合いもせず、祭の数日前になって勝手に実施要領のチラシをつくって配るというゲリラ作戦に。 やるやらないで当日まで総代会、区長会ともめた挙げ句に賛同が得られず、このもくろみは空振りに終わった。お粗末な顛末である。
 しかし実は、3年前に連絡会議を発足させるにあたり、現会長に頭を下げて協力を依頼した張本人はわたしである。なんじゃそりゃって感じだが、当時青年団長だったわたしは、総代会にくらべてあまりに青年団組織が非力であるのを問題視し、青年の意見が祭に反映されない現状をなんとかするために、「総代会と青年団との調整役になっていただきたい」と願い出たわけだ。 しかし会長は「ワシが乗り出すからにはパイプ役のレベルでは済まん」と腹を立て、いつのまにかわたしのお願いは会長のメンツをかけた戦いに変わってしまったという次第。
 北条節句祭870年の歴史と伝統の前に「ワシ」個人のメンツなんか意味あるか。 いや別にメンツのためにがんばっていただいてもよいのだが、それが祭の改悪につながる可能性があるとすれば黙って見過ごすわけにはいかないのだ。


忘れ去られた北条節句祭の見どころ

節句祭には見どころがないので見物客が来ないと考える人は多い。連絡会の努力目標のなかにも「見どころをつくる」という項目がある。「練り合わせをやろう」という発想もそれと無関係ではない。
 屋台の出る祭では一般的に、屋台の宮入り、宮出しが祭の見どころとなっている。神事をじっくり眺めるのもいいもんだが、研究目的でもなければ神事を目当てに祭見物に来る人は少ない。 北条では御旅所入りも含め二日間で4回の宮入りが行われ、中でも最後の本社入りがいちばん気合いの入るポイントである。 しかし残念ながら、屋台の宮入りはどこの祭でもやっている。珍しくもなんともないから客寄せのためのセールスポイントにはなりにくいのだ。
 播州各地の祭を数多く見てまわっていると、逆に「北条節句祭ならでは」の魅力というものがわかってくる。 かつて播州三大祭に数えられるほどの隆盛を誇った北条節句祭には「祇園囃子練り」という素晴らしい伝統があった。これこそ、播州広しといえども北条にしか見られない節句祭独特の粋な「持ち味」なのだ。 前後に二人ずつの青年が屋台のかき棒の上で笛を吹く。上に笛方が乗っているので屋台はゆっくりじんわりと担いでいくしかない。これは見た目には地味かもしれないが、京の流れを汲むといわれる節句祭の優雅な側面を表現した北条流練りの真骨頂なのである。 つまり「北条節句祭には見どころがない」などという見方ははじめからまちがっている。伝統を守らないから見どころが失われただけのことである。
1996年のミニコミ誌より※一部改変

北条節句祭に独特の味わいは「祇園囃子練り」に凝縮されています。 北条へ祭の見物に来て「祇園囃子練り」を見ずに帰ってしまったんではもったいなさすぎ。本宮(祭の二日め)の午後2時ごろ、御旅所を出るときからがはじまりですから駆けつけてください。 応援してくれる人がいっぱい増えると、きっと「祇園囃子練り」を復活させようという町も増える。宮入りができて「祇園囃子練り」がやれないはずないのでね。
 宮入りも、もちろん見て帰ってください。東高室の練り、イチオシです。うまいです。それも味わってもらいたい。神事「龍王の舞」も「鶏合わせ」も、もちろんご覧いただきたい。でもやっぱり「祇園囃子練り」なんです。
 「祇園囃子は地味だからお客さんにウケない」という意見もわかるが、地味なのではなくて雅(みやび)なのである。 北条節句祭は掛け声もだいたいがスローで上品に練るようにできている。それがまた着物で担ぐというスタイルとマッチする。内陸の城下町で育った、お上品で優雅な祭なのだ。 「あーよいよい」も「千秋ろっけ」もこの全体の流れに溶けこんでいる。浜手の祭とは発生根元からして違い、荒々しさで勝負する祭ではない。「鶏合わせ」に象徴される神々しい荘厳さが身上なのだ。 雅な基調のなかにあって、唯一「サシテヤロ」のような伝家の宝刀を秘めているところが粋なのである。(そういえば、今は「屋台が壊れる」という理由でどの町もやらなくなってしまったが、かつては「銅突き」というめっぽう激しい荒技もあった。)
 だいたい「祇園囃子は地味でおもしろくない」と思っている者に限って「祇園囃子練り」を見たことがないのだろう。 確かに祇園囃子の練りには派手さはないが、実際に見てみるとビリビリするほどの緊張感がみなぎる。笛が鳴っているあいだは太鼓も打たないし掛け声もない。力を入れるタイミングが計れないから難しいのである。 あるお年寄りが遠い昔の祇園囃子練りを懐かしそうに語ってくれたことがあるのだが、着物の縫い目が肌にびっちり食い込んではがせなくなるほど大変に厳しい道中だったそうだ。ひたすらじっとこらえるしかない実直な伝統芸なのだ。 屋台を黙って担ぐなど浜手の人には想像もつかないかもしれないが、テレビ画面では伝わらない別の種類の迫力なのだ。
 この節句祭の真髄を辛うじて守り続けていたのは、練りの巧さではピカイチの東高室のみだったが、今年、御旅町が数十年ぶりに復活させ、栗田もそれに続いた。 もし、14町の屋台すべてが「祇園囃子練り」を完全に復活させることができるなら、カネのかかるPRなどしなくとも、近郊近在からどっと見物人が押し寄せることになるだろう。難しいのは承知だが、楽なところに見どころはない。
 そんな意味で、御旅町はともかく、栗田が今年、祇園囃子練りを復活させたことの意義は大きい。御旅町は屋台が小ぶりだから「あそこは屋台が軽いから」で片づけられてしまう。 (「軽いから上手に担いであたりまえ」という言葉は「ウチの屋台は重たいから落ちてあたりまえ」という気持ちの裏返しであるから、そんなところの練りが見る者に感動を与える道理がない。 荒川の小芋祭は、「拝殿練り」の関係で屋台はやや小ぶりだそうだが、練りが見事だから人を魅了する力があるのだ。) その点、栗田の屋台なら播州の平均的な屋台の大きさに照らしても決して引けを取らない。その栗田が、昨年から生まれ変わったように見事な練りを見せている。 別に屋台を軽くしたわけでもないんだから、要は気持ちの問題だということの証明である。栗田にできて横尾、古坂にできないわけがない。いずれも担ぎ手の頭数には不自由していない町である。どうせメンツを賭けるなら、こういうところに賭けてほしいものである。


──あとでまた述べますが、御旅町が96年に祇園囃子練りの「部分的な復活」にチャレンジしてから、「完全な復活」まで11年かかりました。完全な復活とは、御旅所から住吉本社まで、途中で屋台を落とさずに担ぎきることを指します。
 いまはもう、うまくできてあたりまえみたいになってきてますが、はじめは奇跡だったんです。生きているうちにそれが実現できるとは誰も思ってなかったし、「人類が月に行くよりむずかしい」という者もいたくらい。 血の気の多い、こんな原稿を書いたわたし自身でさえやれると信じてなかった。人生でいちばんの「夢」でした。しかし、大勢の仲間の力が結集することで夢は実現した。やっぱり人間ってすごいでって教えられることになりました。
 なのでわたしの次の夢は、14町ぜんぶ(※平成31年から15町)の屋台が祇園囃子練り復活に挑むことです。完全復活じゃなくてもいいんで。挑むだけでいい。挑み続けたら、必ず復活できる。 それが見られるなら、長生きする甲斐があるってもん。
 しんどいとか無理だとか危ないとか言い訳ばっかりする前に、しっかり屋台を担ぐこと。 屋台は台車に乗せて転がしていくものではなく、担ぐものである。(特に北条の台車は大八車型の2輪であるため、よその人に「ぎったんばっこんする屋台」と言われて赤面したことがあるが、こんな恥ずかしい思いはしたくないもんだ。あーかっこ悪い。) 三木大宮神社の祭は屋台を担いだまま階段を上ることで有名だが、危険だからといって巨大なエスカレーターを作って乗せて運んでしまうなら、それはもはや見どころではなくなる。そんなもんなのだ。 (ちなみに、住吉神社の鳥居の石段は「車の出入りができない」という理由でコンクリート敷きに替えられてしまったそうである。だから屋台が台車に乗ったままごろごろ出入りできてしまう。あーなさけない。)
 「千秋ろっけ(千秋楽)」も北条独特で風流だ。まったく北条の祭はどこを取ってもオリジナルだと感心する。 これだって、屋台を「ぎったんばっこん」するのではなく、しっかり担ぎさえすれば、祭の有終の美を飾る最後のクライマックスになる ・・・・などと言えば一斉に「無理に決まっとる」とツッコミを入れられそうだが、方向性の話をしているのだ。どうも北条では、「屋台はコマ(台車)に乗せて運ぶのがあたりまえ」で、肩に乗せて担ぐのは特別な場面だけという思いこみがある。 なにぶん人手不足ゆえ、しかたがない面もあるのだが、これが見る者を白けさせている元凶と認識すべきである。そして、この妙な思いこみをゴロッとくつがえしてくれるのが網干の祭なのである。 網干に行くと「屋台は担ぐのがあたりまえ」だからである。これでもかと言わんばかりに真夜中まで屋台をかき続ける。宮の周辺では整然と練っていても、真夜中ともなると相当に荒っぽくてすさまじい。 「鶏合わせ」のあいだに担ぎ手がさっさと家に帰ってしまう北条とはえらい違いである。


完遂「祇園囃子練り」──2007年の御旅町

わたしがけいれんを起こして気を失って倒れ、救急車で運ばれたのは、2007年、北条節句祭のわずか9日まえ。 海綿状血管腫という脳にできる血管奇形で、約1か月後に左脳の手術を受けることになります。 手術からすでに10年を経過して後遺症もなく、すっかり元気に回復してますので、こんなふうに報告できますが、当時、祭に出られるかどうか、間一髪でした。
 手術までの一時退院は、宵宮が5日後に迫っているというタイミングでしたが、意識が朦朧となっているわたしの頭は、そんなことさえもちゃんと理解できてません。 ちょうど痴呆のような症状で、ろれつもまわらず記憶もあやふや、思考がとぎれとぎれで、何回も同じことをしゃべったりしてたらしい。
 頭がふらふらになると体もふらふらしますから、祭は見物するのが精いっぱいかなとあきらめかけていた。 というより、価値観が変わってしまったような。いちど「命があぶない」と宣告されると、ドスーンと人生観が影響を受ける。 あらゆるものに対して──祭に対してさえも──執着が落ちたのだと思います。「生きていられるだけでほんとうにしあわせだ」と感じられて、 とても涙もろくなり、毎日何回も嬉しくて泣いてしまうような状態。
 けいれん発作の再発にそなえ、2日間の祭のあいだじゅう、ずっと社員がつきっきりでわたしを「警固」してくれることになりました。 宵宮では体調に異変もなく、わたしはなるべく自分の肩で屋台を担がないことにして木方(拍子木を打つ役割)をしてました。例年とはぜんぜんちがう距離感を味わいながら、自分でも可笑しいくらい、ありがたくてありがたくて祭の最中に何度も涙ぐむという‥‥ww
 本宮の朝の町まわりで、前年お亡くなりになった井上晃さんを偲んで、御旅町の屋台を初めて笹屋さんの前に運んでいきました。土井達郎の粋な発案でコースを少し変更したのですが、おばちゃんはほんとうに喜んでくれました。 おっちゃんの遺影を抱いて迎えてくれたおばちゃんの目には涙、涙、涙‥‥。ほんとうに祭を愛していたおっちゃんで、わたしたちみんな好きでした。 祇園囃子練りの復活は、おっちゃんの霊魂が守ってくれたおかげにちがいないと思えます。
 「泣いてもわろても今日いちにちや」──なんべんもそんなひとりごとを自分に。宵宮で倒れるのはいやでしたが、ここまできたら祇園囃子。そこさえ乗り切ったら倒れてもええわという境地です。 祇園囃子一本に懸けているんだぞという気合いだけは抜かりなく発しつつ迎えた本番。お天気は薄曇りの晴れ。さほど寒さも感じず、ほぼベストコンディション。 「今年はチームワークいいぞ御旅町」っていう感触ははじめからありましたな。

笹屋のおかみさんとお店の前で


 ま、こんなぐあいですから、ただでさえこの年の節句祭は、わたしにとってスペシャルだったんですけど、ここへさらに、祇園囃子練り完全復活という特大のご褒美がもらえたわけで。 神さまって、ときどきこんなお茶目な演出で驚かせてくれるからステキです。たまりません。シビれます。
 悲願成就の瞬間、まだ脳が少々ボケていたせいもあったでしょうか、文字どおり夢のような気分でした。 まわりの若い連中は泣いてましたけど、わたしは、ぽけーっと放心したような、なんか、ふわーっと空っぽな感じ。
 よくぞここまで盛りかえしたなと、自分をほめてやりたい。祭が弱ると自分も弱る。だから、こんなふうに盛りかえすことが長年の悲願でした。 祭が少しでも元気になるように、ごそごそと動いてきた。まずは自分の会社をちゃんとして、次に御旅町のこと、そして祭全体へ。きっと来年はもっとよくなると、そう信じてやってきた。 やったらできる。祇園囃子練りはその象徴。96年にやりだしてから11年。大歳神社(御旅所)から住吉神社までの最長不倒距離を、台車なしで屋台を落とさずに担ぎきる。そのことに11年かかりました。 でも、やれた。
 これは途方もない夢だったんです。宮入りでさえボトボト落としてしっかり担げない小さい村ですから。妄想に近い、突拍子もないことでした。 はじめは、やってみること自体が奇跡。というか、やってみようと言い出すこと自体が無茶だったんですけども、毎年トライして、ちょっとずつ記録を伸ばす。スポーツ競技みたいなもん。 はじめの何年かは御旅町筋まで届いただけで、すごいすごい、ようがんばったと喜びました。99年には御旅町筋を越えて御幸町まで到達。
 しかし、伸びたかなと思った記録はまた後退。00年からはパッとしない結果が続きます。 御旅町は決してイチビってこんな試みをやっているわけではないけれど、 ぶさいくな練りを続けていたら、そのうち「やめとけ」と言われる。それがいちばん怖い。 よれよれにヘタってきたらとっとと諦めて台車に乗せること。でないと、うしろからついてくる栗田や南町がしびれを切らす。
 いちばん酷かったのは03年。御旅所の中で、土台から上げたとたんにすぐ落としてしまうという赤っ恥。宮から出ても鳥居の前でまた落とす。信じられない無様な結果に言葉を失いました。なんなのか。どうしてなのか。 メンバーはそこそこ揃っていて、楽観的な読みをしていただけに落胆はなおさらで。これだから祭はむずかしい。
 だから04年に大黒屋まで到達できたときは、みんな口々に奇跡が起こったと狂喜乱舞しました。 80歳をすぎたじいさんたちも、こんな練りはいままで見たことがないと驚いた。「これはもしかしたら、ほんまに、しまいまで行けるんちゃうか」と、そんな予感が確信に変わったのはそのときです。
 50戸を割り込んで、人もカネもない。自分たちの村だけではもう屋台が動かせない。 こんな御旅町を勇気づけてくれたのは、福崎や八幡といった秋祭り組の、いわばエキスパートたち。 北条の祭が困っているんだから助けてやろうと、毎年集まってくれるようになった。 そして、祇園囃子練りはおもろい、あれは燃える、と、みんな口々に言ってくれて、次の年にはまた知りあいの若いヤツを誘って来てくれるようになった。 秋には反対に、こっちの若い衆があっちの祭を手伝わせてもらうという親交が生まれた。
 いちど完全復活して「やれる」となると、それが自信になります。翌年以降も御旅町は本気。宮入り以上の気合いを賭けて挑み続け、この10年で、2011年の失敗と雨天中止の2015年を除き、練り通しを8度達成しました。 宮入りも安定感抜群で危なげなし。ボタボタ屋台を落とすほうがあたりまえだった時代がウソのようです。
 好きなもんは好きなもんどうし、なんか通じる。祭は、ただ頭数さえ揃えたらええってもんではない。屋台を落とすのは祭の恥──そう考える連中でないと息が合わない。息が合わないと怪我人、死人が出るだけ。 さいわい御旅町は助っ人に恵まれました。ほんとうに屋台が好きな精鋭部隊が気持ちよく楽しんで帰ってくれる。ありがたすぎる。


祇園囃子で御旅所から本社まで、
練り通しを初めて復元した平成19年の御旅町の動画。
ヘタな練りですね、
ハイ認めます。すいません。
祇園囃子練り本来の風情も味わいもへったくれもなく、
ヨレヨレでぶさいくです。
「せーの」が多すぎて騒々しいし、笛もヘタ。
それでも、
住吉神社まで到達できたことが無邪気にうれしい。
ぶさいくなところもカットせず編集もない、
「やった」というリアルをそのまま素人が撮っただけの35分。
うれしすぎてはしゃぎすぎている感じが恥ずかしいくらい、
平成19年(2007年)の「祇園囃子練り」は、
特別な記念です。
100年以上、
こんな伝統が途絶えていたわけですから。
これが北条の節句祭ですから。
いまでも御旅町は毎年やってますけど、
このときを境に、
練り通しが失敗することはほとんどなくなりました。
さすがに10年もたちますと、
だいぶ自信もついてきて、
ちょっとは安定感も出てきましたが、
まだまだ、
いっぱいいっぱいで余裕ないです。
黙って雅に、いちびらず、
これからも精いっぱい美しい練りに近づけていきます。

もうひとつの難問──例祭日

北条節句祭が、本来の4月2日、3日ではなく、土日に行われるようになったのは1989年(平成元年)からです。(88年は元の日付が土日でした。) 祭礼の日取りを変えてしまうことに関しては、賛否が分かれ、何年も議論された末に実施されたという経緯があります。
 そこで何かが変わるかと期待されました。 祭が土日になったら、もっと人手が増えるにちがいない。家族連れも増えるにちがいない。いままで仕事で参加できなかった青年たちも戻ってくるにちがいない。 わたしだってそう思いました。
 が、しかし現実には、その翌年から何年も連続で悪天候に祟られたこともあって、むしろ祭の勢いはさらに下降線をたどっていきました。 祭がすたってきたのは日取りを変えたからだ、魂が抜けたからだと主張する者も少なからずいました。
 そのころの節句祭は、ほんとうに魂が抜けたように、ぶざいくな、なさけない光景を目にすることが増えていました。 そして、わたしが団長になった1993年、たいした雨でもないのにあっさりと、また祭を中止にされて、たまりにたまった不満と危機感が爆発したのでした。
 いまでは、節句祭がかつて4月の2日と3日だったことを知らない世代もたくさんいて、日取りのことを気にする者もいなくなったように見えます。 しかし、ほんとうに力のある祭は、平日だろうと関係なしに元の祭礼日を守っています。たとえば魚吹八幡は10月の21日と22日。曜日なんか関係なしに盛大。 そんなふうでありたいですね。

日取りの変更の是非にしても、神さまを中心として考えた場合とそうでない場合の別々の観点から見ると結論が異なる。 氏子の都合を優先させるなら、平日よりも土日にやったほうがいいに決まっている。仕事を休んでまで祭に出たくない人もたくさんいることくらい知っている。 わたし個人は、日取りの変更には建て前としては反対でも、人手不足の現実的な事情から、やむを得ないと考える立場である。屋台が出せないかもしれないほどの担ぎ手不足に悩んだ経験からそう判断するに至ったわけで、決して積極的に賛成する立場とは違う。 もう決まってしまったことなんだからしょうがないという諦めもある。だから、めでたく祭が勢いを盛り返した暁には、もとの4月2~3日に戻すのが当然と考えている。
 そんな例祭日変更甘受派のわたしが、次のような文章を紹介するののは矛盾しているようだが、長くて下品な私の乱文のお口直し(お口直しにしては辛口?)として、最後も「男が咲かす祭り華」からの引用で締めくくりたい。
1996年のミニコミ誌より※一部改変
 祭日をすでに変更しているところ、またはこれから変更しようとする動きのあるところもあるそうですが、神社によっては、祭神のご命日に当たるところもあるため、命日が毎年変わるのは実におかしいことです。 人間の勝手で、しかも神さまごとをいとも簡単に変えるとは、言語道断です。播州地方で大きな祭りをするS社、さらに淡路島のK社は祭日を変更したところ、変更後の二~三年間は連続して雨でした。 雨は人間が考え違いをしている証しで、この間に祭日の変更がいかに悪い事であったかに気づくべきでした。
 昔から決められた祭日を守っていくことが、神社の権威を高めるのです。祭りは娯楽ではなく、神さまにお仕えすることです。我々の都合だけで祭日を転々と変えるような恐ろしいことは決して神意にはかなうものではありません。 何事を行うにもまず「神意にかなうことか」を問うべきです。
 本庁神社庁は「祭神等の変更に関する内規」(昭和五十五年九月十三日 通達第九号四)で、例祭日の変更についての留意点を次のように述べています。
 「例祭日について一般的には、神社の御鎮座縁起や由緒に関わる最も重要な日が定められ、古来その日には厳粛な祭祀が行われて来ているのであって、神社存立上、真にやむを得ない事情のない限り、これを変更するべきではない」。
粕谷宗関「男が咲かす祭り華」より